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Samadhi Article

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サマーディ:すべての認識を超えた悟り

アンドレアス・マメット

 今日、“悟り”(サンスクリット語でサマーディ)について様々な形で語られています。その一つとして、サマーディに至ることは霊的な成長を志す者にとって一種の成長体験であり、サマーディに至った者は、いわばターボチャージャーを備えた特別な体現者になるという理解があります。  

 サマーディの体験は、体験している人間そのものの“消滅”と深く関わっています。サマーディの出現はすなわち、体験者自身の“消滅”を意味しています。サマーディは思考そのものの停止であるのです。これほど日常生活から遠くかけ離れたものがあるでしょうか。

 思考は、我々の認識を占領する終わりのない機能として存在しています。その活動は容赦なく、絶えることがありません。思考が「お腹が空いた」と言えば、思考は胃の中の空腹感覚と同化し、思考が「私は怒っている」と言えばその感情と同化してしまいます。このような例を挙げればきりがないでしょう。思考が何らかの認識を行う度に、好むと好まざるにかかわらず、その感覚が自分のなかで生き続けることになるのです。つまり、思考体としての自己が形成されるのです。

 現実の社会においてこれがどのようなものになるかは、「私は金持ちで有名人だ」という観念と、それに続く尊大さと自己陶酔状態に遭遇する時によく分かるのではないでしょうか。

 もちろん、精神世界の領域においてもこういった思考の働きは全く変わらないのです。思考は、一瞬たりとも絶えることなく活動を続けます。そして思考は流れに乗って動くのです。例えば、「私は素晴らしい瞑想者だ」という新しい認識がうまれるとします。すると「私は神や聖母マリアや聖ジェルマンと交信している」などと言ったりするようになるかもしれません。ここで「私は神に近い存在である。(だから私の言うことを聞いた方がいい)」という新たな“現実”が生まれています。こういった観念が繰り返される中で、尊大さと自己陶酔が別の仮面を付けたまま生き続けてしまうことになります。

 パンダンジャリーヨガの経典の一行目には「Yoga Chittam Vritti                       Nirodha:ヨガは全ての思考の働きが停止する時に完成する」と記されています。別の言い方をすれば、認識を占領する思考機能が完全に停止するときにヨガは完成する、ということなのです。サマーディは自分の内なる世界が開放される経験なのです。自己の内なる世界が開かれると、思考体としての自己がすっと“消滅”します。思考体が“消滅”すると、認識のプロセスがすべて“消滅”することになります。

 サマーディは、それはとてつもない静寂さであり、思考体としての自己はこの静寂の中では存続不可能なのです。この静寂という現実において思考は存在し得ません。つまり、サマーディと思考体としての自己は同時には存在し得ないのです。思考体としての自己があるところにサマーディは存在し、サマーディのあるところに思考体としての自己は存在しないのです。

 インドには瞑想者を最終目的地、究極の「今ここ」、つまりサマーディへと導くために考え出されたスピリチュアルな“手法”が存在します。この“手法”は「ネティ・ネティ」と呼ばれ、その意味は「これでもなく、あれでもない」というものです。「ネティ・ネティ」では、瞑想中に自分の内にある認識が生まれる度に「私はこれではない」と反応するように教えます。間もなくまた別の認識が生まれると、同じように「私はそれではない」と反応するのです。この方法はギャンヨガの教えの一部です。ギャンヨガは知性をもって知性を超えることを教えるヨガなのです。「ネティ・ネティ」は瞑想者をあらゆる認識からの解放、サマーディへと導きます。

 サマーディにおいては、体験者自身は消滅します。残るのは経験の流れだけなのです。対象と主体の分離はすべて消滅します。すべての名詞は消滅し、残るのは動詞だけということです。残されているのはしびれるように鋭い“今この瞬間”に繰り広げられる経験の流れだけなのです。

 サマーディの出現はおそろしく衝撃的です。どんなに創造的なイマジネーションを集めてみたところで、サマーディの準備をすることは不可能でしょう。初めてサマーディを体験した時、私は 21歳でした。3年間の集中的なヨガ修行の後のことです。瞑想を始め、炎をイメージしながら頭上5cmの所に意識を集中させました。そしてその炎の中心に入っていくのをイメージしました。すると突然その炎の中心から急激に空間が広がり始め、考えられないような広大なスペースが展開し始めたのです。私自身も私の思考も完全になくなっていました。その衝撃は骨の髄まで私の身体を貫きました。  

 サマーディは死に似ています。なぜならサマーディはこの世に生きているということを消滅させ、我々の知っている物事の捉え方をも消滅させてしまうからです。経験されるサマーディの強さと深さによっては、その体験を統合させるのに数ヶ月あるいは数年を要するものもあります。またサマーディによって真に覚醒化された状態を初めて経験すると、この素晴らしい開かれた世界を知る前の世界が深い睡眠状態であったということにも気付かされます。

 ヨガの経典には2つのサマーディがある。一つはサルビーチ・サマーディ、もう一つはニルビーチ・サマーディです。これら2つは区別して使われています。前者は“種つき”、後者は“種なし”を意味しています。

  サルビーチ・サマーディの場合、そのあとには思考体としてのエゴが再び働き始め、エゴの働きは戻ってくるだけでなく、もしそこで繰り広げられる思考の変化の様子をしっかり観察しようと意識していなければ、ほとんどの場合その経験を占領し、この体験は真実であると主張し始めるでしょう。実存主義的な意味においてこれはとてもユーモラスです。思考が思考の存在を否定し、言葉が静寂を主張しているのですから。思考が無思考の経験を主張した途端に、歪みが生じてしまうのです。

 サルビーチ・サマーディのあとには思考体としてのエゴが戻ってくるのに対し、ニルビーチ・サマーディのあとには思考体としてのエゴが戻ることはありません。つまり、ニルビーチ・サマーディは悟りの経験であるが、サルビーチ・サマディは悟りの経験ではないのです。それは悟りの片鱗をほんの一瞬見せているにすぎません。サルビーチ・サマディを経験し、それを悟りと勘違いして、すぐに外へ飛び出して私は高みに到達したと宣言しながら説教をしている人がいますが、これは本物の悟りではありません。思考体としてのエゴが二度と戻ることのないニルビーチ・サマーディに達する前には、何百、何千ものサルビーチ・サマーディを経験することもあるのです。

 サマーディを体験したからといって、不可謬性が身に付くというわけではないということも覚えておく必要があります。サマーディに完全に錨を下している非常にたぐい稀な人々でさえ、人間である以上、様々なレベルの間違いを犯してしまうことがあります。学習は続きます。宇宙は永遠に進化を続け、人間もまた同じです。  

 どのようにしてサマーディに至るのか

 様々な瞑想テクニックが存在するが、それらのテクニックの有効性は完全に自分とテクニックの相性にかかっています。丹田、ハートチャクラ、第3の目、頂門といったフォーカスや、クリーヤ瞑想もあります。それぞれのゲートから体験されるサマーディは、それぞれのフォーカスポイントによって大きく異なっています。丹田から沸き起こるサマーディは大地にしっかりと根を張るような安定感があり、非常に力強いものです。ハートのサマーディは言葉で言い表せないほどの優美さとエクスタシーとともにやってきます。第3の目のサマーディは冷静で光に満ちています。頭頂チャクラのサマーディは、とてつもなく衝撃的てす。

 サマーディはスポーツやセックスの最中、そして舞踊や音楽や絵画などの芸術活動中に起こり得るということに触れておくのはとても興味深いことかも知れません。しかしながら、そのような状況の中でサマーディを体験した場合、その人はサマーディに対する直接的なトレーニングを全く行っていないために、その体験にひどく混乱をしてしまう可能性があります。もしサマーディが純粋に神秘の学校というようなところで起これば、少なくとも気持ちの準備はできているかもしれません。

 サマーディを経験したものは、“変容”への旅がはじまります。サマーディは、表現されうるあらゆる事象を超えた海のような自由を象徴しています。だからこそサマーディの体験は我々の記憶に残り続け、何とかしてサマーディを再び経験できるような状況や条件を見つけ出そうと我々を突き動かすのです。そしてそれは、再びまた再びと何度もサマーディを経験し、自己が消滅して思考が2度と戻らなくなる日に到達するまで続くのです。  

アンドレアス・マメット

 瞑想の道を歩み始めて30数年。70年代に修行を極めるためインドに5年間滞在。80年代初めに日本とドイツで瞑想指導。現在、カリフォルニアのシャスタ山中に居を構え、アメリカだけでなくパリと東京でもワークショップを開催してその教えを普及する活動を続けている。